東京高等裁判所 昭和52年(う)2455号 判決 1980年3月04日
被告人 山口和夫
主文
本件控訴を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人水谷昭、同荒井洋一連名提出の控訴趣意書第一点四項に記載のとおりであり、これに対する答弁は検察官提出の答弁書に記載のとおりであるから、ここにいずれも引用し、記録並びに当審及び原審取調べの各証拠により以下に当裁判所の判断を示す。
一、所論は要するに、原判決における過失認定を論難し、被告人に過失はない旨主張する。
ところで、被告人に過失ありとした原判示の骨子は、もしも被告人が制限速度を遵守し前方注視を十分に尽くしていたならば、相手方車両を右前方三一・五メートルに認めた時点において事故の危険性を的確に判断し、効果的に事故回避の措置をとり得ていた筈であるのに、前記の義務を怠つたためこれをなし得ず、漸く両者の間隔約一八・五メートルに迫つて危険に気付いたときには、既に事故を回避するに手遅れであつた、とする趣旨に解される。
1.右判示の前提のひとつは、被告人車両の時速が約七〇キロメートルであつたとする認定にあるから、まずこの点についてみると、関係者双方のいずれとも利害関係のない目撃者である原審証人北田みつえは、被告人のダンプカーはとにかくスピードがあつた、すごくとばしてくると思つた旨供述しており、被告人自身も、自己の無過失を主張して争う原審公判廷においてさえ一貫して毎時約七〇キロメートルであつたと明言しているのに加え、当審において取調べた江守鑑定の結果も毎時約七〇キロメートルとするものであつて、現場に残された客観的痕跡もこれに矛盾するものはない。もつとも、当審において匂坂鑑定の結果が明らかになるに及び、被告人は、危険察知時の自車時速は三〇乃至四〇キロメートルであつた旨にわかに供述をひるがえすにいたつたし、また、右匂坂鑑定は、被告人車両のタコグラフを解読すれば、その車軸回転停止の二一秒前即ち距離にして二八五メートル手前で七二キロメートルに達していた時速が、これをピークに以後一貫逓減して車軸回転停止時には二二キロメートルにまで落ちていたとするものであるが、かような低速はいずれにしても、前記北田みつえの目撃状況、被告人車両及び相手方車両の各走行距離から推認される両車の速度比、並びに当時は早朝で被告人の進行道路は交通量も少なく、その他特にかような一貫逓減、低速運転を要求される道路条件も存しなかつたと認められる等の諸事情と対比勘案するとき、はなはだ不自然なものである。本件の事案において、制動痕の全長を基礎に被告人車両の速度を逆算することが誤りでないことも、前記江守一郎の当審における供述の趣旨とするところである。彼此考慮するとき、被告人車両の時速を約七〇キロメートルとする原認定に誤認があるとは認めがたいから、以下これに依拠し、すすんで原判決の過失認定の当否の検討にはいる。
2.たしかに、本件における被告人車両の進行道路は道路交通法上の優先道路であり、その一方、相手方車両の進行してきた交差道路には交差点入口手前に一時停止の道路標識が設けられ、かつ、一時停止線が標示されているものであるから、通常このような場合、優先道路上の車両の運転者としては、相手方車両が交差点入口付近で一時停止し、かつ自車の進行を妨害するような行動に出ることはないと予想するのが自然であろう。しかし右はあくまで通常の場合においてである。例外的に、相手方が一時停止することなく交差点へ進入してくる明らかな気配の窺われる場合等であつて、両車両がそのまま進行を続けるにおいては衝突の危険必至であるというような特別の事情があるときには、右の予想乃至期待の前提は既に失われており、優先道路の進行車両といえども危険を察知し、すすんでは臨機の措置にでて結果を回避すべき義務を負うものである。
3.叙上の見地から本件における具体的事実関係をみると、被告人は、昭和五一年六月三日付実況見分調書添付現場見取図に基づいて、自分はその<2>点付近を時速約七〇キロメートルで進行中、相手方車両が時速二、三〇キロメートルで交差道路右手から進行してきて見取図<A>点付近にまで差しかかつたのを認めた旨述べており、右供述は捜査過程から原審公判廷を通じ一貫しているものである。
してみると、右の、被告人が相手方車両を認めた時点においては、それは既に交差点入口に四メートル足らずまで、しかも時速二、三〇キロメートルのまま接近進行してきており、かりに相手方がそこで急停止を試みたとしてももはや交差点内への進入を避けがたいという走行状況を客観的に示していたことに外ならず、加えるに、時刻は恰も午前六時一五分ころ、現場は交通整理の行われていない閑散とした市街地外れの交差点であつて、経験上公知であるように、一時不停止、速度超過等の道路交通法違反が比較的生じ易い条件下にあつたものである。
このような特別の事情が存する本件においては、前記<2>点付近の時点で既に、平均的運転者に対し相手方車両の一時停止と自車の進行不妨害とを予期させるべき前提事実は、客観的に存しなくなつていたものと認めざるを得ない。そして、制限速度の毎時四〇キロメートルを遵守し、その結果毎時七〇キロメートル走行時に比しておのずから格段精度の高くなる前方注視を尽くしつつ、<2>点付近に差しかかつた平均的運転者であるならば、相手方車両が一時停止することなくそのままの速度で交差点に進入してくる切迫した気配のあることを状況上察知し得た筈であると推認するにもかたくない。もとより、優先道路上の運転者といえども、交通安全のための注意義務の見地から最も基本的である制限速度遵守、前方注視の義務一般については、これを免れ、若しくは通常の場合に比してとくに軽減されるべきいわれはないのである。結局被告人は、その高速進行と道路標識に気をとられたこと等に起因する前方注視の低下のため、前記<2>点付近において危険を察知できなかつたものであると認めることができる。
4.次にいわゆる結果回避可能性とその義務についてみると、本件において被告人車両がもし時速四〇キロメートルで走行していたならば、その反応・空走距離に推定滑走距離を加えた合計、即ち約一七・四メートルの所要距離をもつて急停止しえていたという所論の算式はこれを是認できるところ、前記<2>点から現実の衝突点までは約二七・四メートル、<2>点を過ぎて<3>点にいたる半ばの地点からさえ約二一メートルだというものであるから、被告人において前述予見義務を尽くし、つまり制限速度を遵守して前方注視を怠らず<2>点付近において危険を察知していたならば、例えば急制動を講ずることによつて本件衝突は十分回避しえていたということになるものである。
5.以上を総合していえば、被告人は、制限最高速度を遵守しかつ前方を注視して進行すべき業務上の注意義務を怠り、毎時約七〇キロメートルという高速でかつおのずから前方への十分な注視を欠いたまま<2>点付近を進行していたため、右の義務を尽くしておればその付近で当然気付くべきものであつた相手方車両の異常な動静と危険性とに思いいたらず、それゆえまた、可能な事故回避の策に直ちにでることもなかつたものであり、漸く<3>点付近に到つて遅ればせに危険性を察知したときには既に事故を回避しうる機会を失してしまつていたということである。結局において、これと同趣旨の事実を認定し、被告人に業務上過失致死の罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認若しくは法令の解釈適用の誤りを認めがたく、結論的にこれを肯認しうるものである。控訴趣意書第一点四項の論旨は理由がない。
6.また、控訴趣意書記載のその余の論旨にかんがみ職権をもつて調査してみても、原判決に破棄の事由が存するものとは認めがたい。
二、よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文によつて被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。
(裁判官 菅間英男 栗原平八郎 柴田孝夫)